謹んでお悔やみ申し上げます。
69歳という早すぎるご逝去・・・、ご遺族の皆様の悲しみをお察し申し上げますとともに、安らかなるご冥福を心からお祈りいたします。
長男は5年間、私も指導者として2年間お世話になり、その後も仲良くさせて頂きました。
監督は片上野球部の監督を30年以上勤めた功労者で今季も現役でした。
現役コーチに教え子がいるくらいです。
若い監督にありがちですが野球の技術しか教えれない、なんちゃって指導者ではありません。
野球というスポーツを通して、現代の教育環境ではなかなか教わることのできない「厳しさ・強さ・優しさ」そして「言葉では伝えられない人としての大事な事」を身を持ってハートで伝えてくれた真の指導者でした。
夕方から始まる練習のために仕事は定時に帰社、そのために早朝5~6時に出社していたと周りから聞いています。
それも30年以上。
育成会(保護者会)とのコミュニケーションでも面白おかしく、時には厳しく真剣に親を叱りつけることも。
そんな人だったのでもちろん人望も厚く、2回に分けたお通夜も大渋滞でした。
教え子を「自分の子供」と表現していた監督のもとにたくさんの子供達も来ていました。
この30数年の間に延べ何人の子供が育っていったのでしょうか。
甲子園球児も輩出しています。
よく監督は「老後は心配してないんや。わしには何百人って子供がいるで、誰か面倒見てくれるやろ!」と笑い飛ばしていました。
そんなことを言いつつも誰に面倒かけることなく、サッと逝ってしまうとこも監督らしいなと。
「地域は人が作る」
たくさんの子供を育て、片上地区に最も貢献しているのは福田監督だと思っています。
飲みに行くと真剣な野球の話はもちろんですが、冗談や馬鹿げた話なども多々、楽しいので私はいつも飲み過ぎてしまう始末・・・。
愉快で豪快な人ですがグランドに立ってふざけるようなところは見たことがありませんでした。
グラウンドでは常に真剣に子供と戦っていました。
試合では子供と共に相手と戦い、練習では「男と男の勝負や!」と子供たちと向かい合っていました。
監督はグラウンドでは子供を子供と思っておらず「一人の男」として接していました。
だから手加減はしない、いつも真剣勝負!
たとえ勝負に負けようとも正々堂々と野球をするのを好み、勝つためだけのズル賢いプレーは嫌いました。
学童野球でもピッチャーが速球の間にスローボールを投げてくるチームが良くいます。
緩急をつけてタイミングを外す、スポーツにおいて大事な駆け引きです。
しかし監督はそれをさせませんでした。
「そんなこと中学・高校に行けば嫌でも身に付く。今はもっと速い球を投げれるようになることが大事なんや!」
負けることはすごく嫌いな人でしたが、それよりも子供たちの5年後・10年後を見据えた指導で一貫していました。
教え子が中学・高校に行っても合間を見て試合を見に行ってました。
卒団者でも新聞に良い結果が掲載されると朝一番に賞賛と激励の電話をしていました。
野球で活躍している子だけに目をかけていたわけではありません。
学童野球をやる子たちは活発な子が多いです。
思春期に道を踏み外すこともあります。
そんな子たちのために「困ったらいつでもうちに来い。夜中でも留守でもいつでも勝手に入ってこい!」と30数年間、玄関の鍵を閉めたことはありません。(今は締まっています)
グラウンドを離れれば面白いオッチャンでした。
道で会うと一言二言しゃべって、最後にくだらないことを言って「ガッハッハッハ!」と笑って去っていく姿に活力をもらっていました。
豪快ですが律儀な人でした。
「春たんぼ」では毎年、当社の駐車場に車を停めていました。
勝手に停めればいい間柄なのですが、毎年「29日に車停めさせての!」と事前連絡。
終わってからは「ありがとな!」と顔を出してくれます。
私たちが留守の時は、翌日の朝に電話があり「昨日ありがとな!」
小さなことでも「礼」は忘れませんでした。
飲みに行っても楽しい人でした。
ネガティブなことは多くを語らず、前向きに楽しい席ばかり。
終盤は必ず奥さんの自慢が入ってきます。
「わしが今あるのは嫁さんのおかげやと思ってるんや。」から始まり、昔のエピソードをたくさん聞かせてもらっていました。
私が指導者を辞める時、自宅に招いてくれました。
手間暇かけて作ってくれたであろう奥さんの手料理、他にもたくさんの料理が並べられていました。
私は仕事の立場上、メーカー他いろいろな接待を受けましたが、こんなに気持ちのこもったおもてなしは初めてで感動したのを鮮明に覚えています。
その時も、監督が事前に知り合いの魚屋さんに30センチほどの皿を持って行って「これに刺身つめて持ってきてくれ。」と頼んだらしいのですが
魚屋さん「福田さんが大事なお客さんを招くんやろで」と80センチほどの皿に変わっていました。(たぶんサービスで)
「わしは後で皿持っていくのが面倒くさいで先に持って行っただけやのに・・・。」本当に人徳です。
言い訳は嫌いな人でした。
「学校が小さいから、生徒数が少ないから、だから弱くて仕方ないとは絶対言いたくない!」よく聞きました。
好き嫌いがハッキリしていて喜怒哀楽が良くわかる人でした。
子供との別れでは涙を流してくれることも・・・。
楽な道は決して選ばず、常にいばらの道を選んでいたように見えました。
閻魔大王に天国行きを命じられても「わしは地獄行かせてもらうわ!」と言いそうな気がします。
そこでまた若者たちに野球を教え、そのあとは閻魔大王と酒を飲んでいるのが浮かびます。
監督と出会って10年弱。
いろいろなことを教えてもらい、たくさんの心の財産をもらっています。
私の中で監督は永遠に監督であり、これからも心の中で生きていくのでしょう。
片上には私と同じように思っている人がたくさんいます。
いつになるか分かりませんが、また一緒に酒飲みましょうね!
本当にありがとうございました!